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"Eugene Lanti, la sennaciisto" --- センナツィイスト:エウゲーノ・ランティ

Tonyo del Barrio ---- トンニョ・デル・バリオ

(原文はスペイン語。エスペラント語版、英語版もあります)

エウゲーノ・ランティという名は、エスペランティスト界以外ではほとんど知られていない。もしかしたら文学愛好者のなかには、フリオ・コルタサルの小説 「石蹴り遊び」(訳注: 日本語版は 土岐恒二訳/集英社刊がある) か、ジョージ・オーウェルの自伝でみかけたという人があるかもしれない。 (両作品については後述)

有名ではないが、ランティはとても面白い個性をもった人物である。国民性なき全世界協会、あるいはそのオリジナルのエスペラント名でいえば「Sennacieca Asocio Tutmonda」(SAT)、すなわちエスペラント使用する労働者の協会の共同創 立にあたり、最も重要な指導者だった。社会組織の指導理念としての国家という 概念を除去することを目標とした、新しい主義の理論家である。

ランティの実名はウジェーヌ・アダン。1879年にノルマンディーの中の小さな村で生まれた。この貧しい農家の息子はその後パリへ移動し、そこで手作業労働者として生計をたてる。

若い時分には、アナキズム思想に大きな影響を受けた。アナキスト仲間のあいだでは活動的なほうでもあった。フォールやネール、バルビュスのような、フランスのアナキストたちや前衛的理論家との接触もあった。

第一次世界大戦中には徴兵され、救急車の運転手として働いた。このできごとこそ、ランティの戦争とナショナリズムに対する嫌悪が確固としたものになったところである。またそれはエスペラントとの最初の接触を持ち、この言語を学習し始めた年でもある。さらにその頃、ロシア革命の感銘の下、ランティは共産主義ともしばしば接触している、これはこの時期にはよくあることだった。

その後市民生活に戻り、エスペランティストの労働運動との接触もあったが、戦争の前の数年の活動で、組織化もまだされていなかった。1919 年、ランティはフランスの協会 「Le Travailleur Esperantiste」(エスペランティスト労働者)という広報誌の編集者に選ばれ、そこは文学の才能と能力を実証する最初の場となった。

SAT

1921年にはプラハ・エスペラント大会に参加した。すべての国々のエスペランティストの労働者を結集させてひとつの組織をつくりあげるという決定をがなされたのはこのときである。ナショナリズムに関係あるものすべてを一掃したいという想いは、その前述の「国民性なき全世界協会」という団体名が示す通り、国別支部もつくらないという、実に急進的なものだった。

ランティが率いたこの協会は、始動後からすぐに急成長期に入った。初期のころから、多元主義は大切にされてきた。文化的活動と違う国々の労働者同士取り合う連絡によって、人々が教条主義に陥らないようにするということを、多元主義は意味していたのである。しかしそれは常に成功したわけではなかった。緊張期の後には、アナキスト、共産党正統派、社会民主主義など、多様な傾向による分裂もあったのだ。

さらに、別の相当な緊張もあった。国際主義の概念は、国家の存在およびその重要性を認めるものだったが、ランティの方では、独自にもっと急進的な、国籍、エスニシティー、あるいは国家に基づいたすべての区分の除去を要求するという脱国民主義というものを立ち上げていたからである。

1928年、国際組織構成のために妥協案が見いだされた。SAT自体はは厳密に世界主義的であるように留まり、それとは別に民族あるいは国レベルに基礎をもつ複数の労働者協会を設立する、というものである。

脱国民主義は、永久に固定的な主義・思想であったことはない。民族や国家の廃絶を主張するという意味においてだけでなく、労働者への搾取に反対してそれを置く社会的傾向付けの理由としても、急進的なコスモポリタニズムの一種とすることもできる。平等主義という言説の手段としてのエスペラント語、という役割は、この概念の中心に位置する。

ランティは自分の仮名 (フランス語の "アンティ/反対する者" からきている) を1921年に採用した。この名前の変更は(法的な点以外の除いてすべての関連で)ずいぶん前衛的で、 ウジェーヌ・アダンは自殺したと自分自身をジョークにしたてて公表をするほどだった。少数の雑誌は、それを本気にして現実のニュースとして扱うものもあったくらいだ。

ランティはフランス共産党の創立者の一人である。しかし数回にわたるソ連への旅と、ソビエトエスペランティスト協会(SEU)のリーダーとの意見の相違ゆえに、1920年代のおわりにはフランス共産党をぬけ、ソビエト体制に対しても非常に批判的になった。

1930年代には、ランティはソビエトの体制と深刻な衝突があった。ランティはトロツキストでもなかったのだが、思想的な発展にともなって、トロツキストやスペインのPOUM (訳注:マルクス主義統一労働者党) のような組織と共通する様々なものをもっていた。 1933年にランティは、それが内部の統一性を維持する方法であると信じて、SATの内の自分の責任分担を放棄したが、それも結局は無駄になった。というのも、ソビエトの体制は大粛清の間にエスペラント運動を禁止し、その重要な人物たちを迫害したからである。

Lanti と Esperanto

ランティはエスペラントを自身の表現の基礎的な道具にしただけでなく、同時に 社会運動の道具にした。自宅においてさえ、習慣的な日常の言語としてエスペラントを使用した。30年代当時、生活をともにしていた女性は作家エレン・ケイト・リムージンだったが、この人はあの有名な作家ジョージ・オーウェルのおばにあたる人物である。オーウェルは一時期、二人の家に住んでいたこともあった。オーウェルとランティは、政治的な意見においていくつもの共通点があったにもかかわらず、互いの仲はよくなかった。

SATは文化活動を大いに重要視した。ランティの文体は明確さと単純さの手本として高く評価された。著作はおもに随筆だったが、ヴォルテールの「カンディード」のエスペラント訳というという非常におもしろい仕事もしている。

1936年はランティのコスモポリタニズムをさらに一段高めたときである。フランスをはなれて、エスペラント語によって関わることのできる人たちに集中して訪問することで世界をまわる旅に出たのである。スペインとポルトガルをやや足早にとおりすぎ、日本には長期滞在した。しかし病気になり、ついには公安によるいやがらせを受けて最終的には出国を余儀なくされる。

オーストラリアとニュージーランドに短期的に滞在したあと、ウルグアイ、アルゼンチン、チリは地元エスペラント運動が弱いためにあまり居心地よくはなかったので、さっととおりぬけた。

そして1940年ついにメキシコにたどり着いた。そこでランティは、スペイン語表記の合理化と単純化を唱道する「レノバシオン」という雑誌を発行しているグループと協働した。その文学的影響のために第63章において用いられたこの雑誌からのテクストには、コルタサルの前述の作品にエウヘニオ・ランティ(ママ)という名前が出てくることになった原因である。

不運なことに、ランティの政局に関する悲観主義の上には病気の加重が伴った。このふたつのことが自殺を誘導していったのである。現実になったのは1947年の1月17日。ランティ(は書類以外は何も遺さなかったのだが) の意志の指定遺言執行者は、追放された元スペインの議会人フランシスコ・アソリンだった。SAT会員で、後にメキシコのエスペラント運動のリーダーとなった人物である。

SATはまだその政治的・文化的仕事を続けている。SATはランティが生前に賦与した特徴的な特色の大部分を、現在も示しつづけている。センナツィイスト(脱国民主義)分会さえ最近再建されたが、それはランティが30年代におおいに鼓舞したものである。

エスペランティストでない方にも、この文章によって、単に文学面で非常に秀でた以上の仕事をしたこの大人物ランティについて、少しでも知っていただければ幸いである。


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